最後のディズニープリンセス

インターネットのうわさによると、一番最後のディズニープリンセスは全てをさらさらなものにするそうです

私は渋谷が好きだ。ここには違和感がない。確固たる土台がないから、全てがいっしょくたにされて混沌としていて、従って私のようなものがいても、誰も気にも止めない。それが私には心地よかった。ここは透明な街なのである。全てがあるから、全てが無視される。ここには物珍しさや異常は発生しない。夜職、女子高生、サラリーマン、路上ミュージシャン、飲んだくれ、トランスジェンダー、殺人鬼、ホームレス、   。

 

私は美術館が好きだ。ここでは注目するものが決まっていて、決められた道を歩くだけだ。空間は広く、床は白い。私は大の字になって寝そべりながら周りを囲む顔たちに視姦される。しかしその目は穏やかで、顔付きはゆるやかである。彼らもまた私と同類なのだ。見られているのに、見えないもの。

 

私は本屋が嫌いだった。私には本をとることができない。私には、何かに働きかける力がないのである。手に取ったり、足で蹴ったり、声で呼びかけたり、そういったことは私には不可能である。私に出来るのは、見ること、聴くこと、受容すること。私は私が私のようであるからではなく、そういう副次的な理由で孤独である。


私はトイレの前に立っていた。そのはずだ。私には鏡とそれに映る景色が見えている。だが、そこに映るはずのものはいつまでたっても見えなかった。


人々は私の周りをぐるぐると回った。それに反して時計の針はちっとも動いていないように思えた。


時々自分のことについて考える。私は   である。   ということは私が背景に完全に同化するような特殊な皮膚を持っているのか、それとも光を透過するのか。後者なら、私は盲目のはずだった。前者であるとも思えない。私は周囲に溶け込んだり、馴染んだりしているのではない。私はずっと部外者だった。渋谷の人々とは違うのだ。だから、私は多分反射した光を何らかの形で、少なくとも地球上の生物にとって、可視ではなくさせてしまうのかもしれない。今のところそれが最もらしい話だった。突拍子のない話ではない。私以外に   が何十、何百、何万いたとしても、全くおかしなことではない。“ない”というのは常に論理にとって厄介なものだ。それは多分論理の自己防衛的な側面もあるのだろう。自身の存在が危ぶまれないように。自分の薄っぺらさが、ばれないように。存在と非存在の間。私たちの足跡は、存在の浜にあって寄せては返す非存在の波にさらわれる。


交差点のど真ん中で私は立ちすくんでいた。とぐろを巻いたソフトクリームのアイスを男の子が凝視していた。手をつなぐ父親は呆然としていた。

 

真夏の渋谷の暑さはとどまるところを知らず、溶けたアイスがぽたぽたと落ちてその度に男の子のズボンと父親の革靴に白いしみがついた。

 

凛とした佇まいのアイスはどんどんその形をゆがめて、男の子の指を段々滑り落ちながらアスファルトに水溜りを作る。いずれ乾いて、もしかしたら、なにかしらの跡が残るのかもしれない。

 

遂に自らの重さによって自らの軽さに耐え切れなくなったアイスはべちゃりと地面に落ちた。腐った肉に集る蠅のように男の子はそのアイスに手を伸ばす。あ、と誰かの声がした。赤と緑の信号機が私の頭上でぐるぐる回っていた。

 

ぐんっ、と男の子の体が一瞬浮いて、首がしなりながらものすごいスピードで父親の腕に収まった。目の前をトラックが通過する。その風切り音はやけに耳に響いた。信号が緑に変わり、男の子は父親に抱えられながら横断歩道を渡る。タイヤ痕がくっきりついたアイスクリームは、飛び散って広がり、烏の糞のようだった。男の子は父親の肩に顎を乗せてそれをじっと見ていた。空になったスコーンは固く右手に握られていた。