最後のディズニープリンセス

インターネットのうわさによると、一番最後のディズニープリンセスは全てをさらさらなものにするそうです

Twitterをやっていたらこのような文章に出会った。以下抜粋。

「控えめに言ってさ

お遊戯マリオカート大会でアラサーおばさんたちが泣き始めてそれを慰めるために童貞おじさんたちが大金投げてヨシヨシするって地獄絵図だよね?

特別擁護学級でもこんなことにならねぇぞ」

特別擁護学級。よい言葉ですね。

この主張はほとんど正しい。言い過ぎな感じもするが面白いので全然いい。むしろ問題なのはVtuberの方だろう。ところで、今戌神ころねさんの動画を見ています。こういう立場を私は取っている。

Vtuberは客層的に教育テレビの形を取ったほうがいいだろう。今のところ、私の知る限りときのそらが恐らくそれに一番近い。

客層的にというのは、Vtuberを見ている人間は基本的に精神がおかしい(これはVtuberの側にも言える)ので、精神がおかしな人間たちがおかしなことをしださないよう、Vtuberはもっと客と壁を作るべきだろう。もちろんこれは演者側にも倫理的に善いことだと思っている。Twitterでエロいだの中出ししたいだのr18イラストを描かれまくられるだの自身の配信活動と関係のない人間関係まで百合だのレズセだのと

 

書く気が失せた。言いたいこととしてVtuber はかなり人権をふみにじっている文化のように思える。母親を配信に呼ぶのもいいことなのかどうか分からないが、その母親の声がエロいだのエロいイラスト書くだの、基本的に基本的な人権がふみにじられているだろう。が別に俺は兎田ぺこらを見るし、戌神ころねを見ている。別にそんなに下品でもないといえばないかもな。という気もしている。この辺りは適性の有無という話になる。楽しめる人間だけうんたらかんたら。

 

 

タイトル

自分だけが知っていてどうたらこうたらという話を前回の記事でやった。今回もそういう話になる。

「気づいたんスけど…もしかして『今』、“ない”ですよね…?」

中学生のときに、隣の席にいた天パで少し太っている村山が、2時間目の休み時間に、教室の隅まで僕を連れていって僕だけに聞こえる小さな声で、周りを気にしながら言った。こうした行動は逆にクラスの目を引いたが、彼は分かってそれをやっている。同様にこうした考えもまた僕の目を引くと彼は思っていて、とにかく彼は目立ちたかった。それもミステリアスに。彼は誰にでも敬語を使うし、それは少し雑な敬語ーー彼からすると、『他』とは違う口調ーーだったし、時々突然空を向いてぶつぶつ独り言を言った。一度だけ何を言っているのか気になって耳をすませていたことがあったが、聴こえてきたのは「せいそなさーしーそうせいせりさいさーし」だった。僕は上手く聴き取れなかったことにした。その方がお互いのためだった。

彼の話は、彼の予想通り僕の目を引いた。正確に言えば予想通りではなかった。発達段階的に、中学生はこうした実存とか時間とかの形而上学に取り憑かれるもので、こうしたことから、彼が自分が特異な考えをしていて、それは注目に値するという予想は間違っている。僕が驚いたのは彼の理論の方だった。彼の理論はまず背理法が根幹を成しているのだと言う。「背理法が根幹を成している」と彼は言ったが背理法が何かは僕はよく知らない。多分ここにいる誰も知らないだろうし、恐らく別に根幹を成してもいない。まず、今があると仮定して論証の幕が上がる。彼は数直線のある場所に点を書く。次に数直線上の点(つまり今)より左側を過去と考える。点(今)より右側を未来と考える。ここで、この数直線は時間の流れを表していることが分かる。つまり、今を0として右を正の向き、左を負の向きとして、単位を秒とすると時間の流れを表すことができる。当然0+t秒(今よりt秒後)は未来になり、0-t秒(今よりt秒前)は過去になる。すると、もう少し厳密な議論をしてある量子力学の方程式を使うと、今が未来に収斂するため、今はない。というのが彼の理論だった。まず初めに、こいつは殺していいのかなと思った。量子力学、収斂といった言葉を使うとき人間はここまで満足そうな顔になれるようだ。彼のこうした暗い喜びは他者を巻き込まねばならないというその一点のみで暗かった。彼は基本的にいい人間で、一度自転車のチェーンが外れてしまって立ち往生していたときに彼が通りかかって、驚くほどの手際でチェーンを巻き直してくれた。彼は少し恥ずかしそうに「実家がね」と言った。おかしな敬語のない素朴な言葉も相まって、あの時の彼はふたまわりくらい大きく見えた。こうしたことが彼には度々見られたために、彼はクラスでは中々にいい奴として通っていた。もちろん僕にも通っているが、僕にだけこうした話題を持ち出すために、僕だけが彼のこうした性質を知っていて、周りと僕の彼への印象はかなり違うものではあった。彼の理論は正直言ってふざけたものだったし、「その量子力学の方程式ってなに」と訊けば彼は慌てふためいたことだろう。実際僕はそうして、彼は慌てふためいた。この理論はまだ醸成の段階でと彼は言った。その言い方がまた僕の癪に触り、僕はもっと彼を馬鹿にした。独り言のことも言った。自己顕示欲の強いクソ野郎だってことも言った。チェーンのことは完全に僕の頭の中からなくなっていた。僕はどうかしていたのだった。大きな声を出すのは気持ちが良かった。麻薬みたいなものだった。一通り終えた後も彼は何も言わなかった。この辺りで麻薬の煙が頭からようやく消えて、完全に自分が悪いことをしたことに気づいた。僕は何度も謝った。中学生までは、相手が「いいよ」を言うまで謝り続けるのが基本的な戦術であり、義務でもある。謝られた側も即座にいいよをしなければならない。彼はなぜかいいよをしなかった。その代わりにやけに小さい声で「俺ってほんとに何やってんだろう」とつぶやいた。僕だけに聞こえる小さな声だった。僕だけが知っていることだった。当然の帰結として彼は学校に来なくなった。僕だけが理由を知っていた。僕は毎日彼に手紙を送った。僕に会いたくはないだろうと思ったからだ。ある日、そういえばあの理論は完成しそう? と手紙に書いた。思いつきで書いただけだった。許してもらいたかったのかもしれない。僕は君の話をちゃんと聴いていたし、興味もあったし、単純に君のことが好きだったと彼に思ってほしかったのかもしれない。なんでもよかった。とにかく学校に来てほしかった。元通りに。あのチェーンみたいに。

3日後に、僕の家に論文が届いた。少なくとも僕が知っている文章に対するカテゴライズで、論文が最もそれに合うものだった。なぜなら大量に数式が書かれていたし、専門用語で溢れすぎて何一つ理解できなかったからだった。著者名には村山 賢と書かれてあった。論文の最後のページには「俺は死ぬことにする。これはお前の好きにしてくれ。本当にごめん。俺どうすればよかったんだろう。けどお前のおかげでやれることはやれたかも。」と書かれていた。次の日彼は死んだ。みんなが知っていることだ。けどこの論文は僕だけが知っていた。僕は高校生になって美術の予備校に通い、デザイン系の学部に進学した。画像加工について学んだ。卒業制作には、大学から来た文章を改ざんして提出した。3年後に僕は論文を発表した。この論文により量子力学の荒野はその莫大な地平を開き、多くの土地を耕すことに成功した。また時間の連続性や区別にも重要な発見があった。僕は時々急に空を見上げたり、独り言を言ったりするようになった。著者名はちゃんと僕の名前になっている。みんなが知っていることだ。

自分だけが覚えている周りの人間からするとクソどうでもいい(お前にとっては気がかりな)ことを話しはじめるときに文頭に付けられる「なんか」の配達で日々をやりくりしている。実際にはこんな仕事はなく金を稼げることもなくそもそもこういう風になんかを使う人間はいない。いたらコメントしてくれ。謝ります。クソが。クソすぎる。なんだこれ。死ね。キモすぎる。

ところで、出来るだけ短い文章で喋った方がいい(死ね。キモイ。ハゲ。等)。その方がなんか深みが出る。実際には出ていないが、なんかそんな感じがする。名言って調べて50行の文章は出てこないだろう。そういうことだ。俺は何を書いているんだ? 何かを書きたかったはずで、それはこんなものではなかったのは確かだ。なんなんだ。良い文章を読みまくればいずれ書けるようになるのだろうか?  良い文章について考えをめぐらせてみてもそれが一体どういう規則や構造を持っているのか全く分からない。分かるのはおぼろげな輪郭だけだ。判別は出来る程度の感覚。分かるだろう。私はまだ良い文章を書けていない(まだ...)。読みまくる解きまくるというのは本当に意味のある行為なんだろうか。問題を解き終わったときのあの虚無感はなんなんだ?  分からなかった問題にこそ成長があるのだとして、それの解説を読み込み理解したとして、そこからどうすればいいんだ?  また次の問題へいくのか?  それで俺は成長したことになっているのか?  良い文章をただたくさん消費しまくればそれで良い文章を書けるようになるのか?  どこに良い文章があるんだ?  文化祭で「良い文章  6000円」とでも書かれて売られてんのか?  どこの文化祭だ。教えてくれ。頼む。教えてください......

 

 

黙禱の時間、他

新潮クレストブックスでジークフリート・レンツの黙禱の時間を一目見た時からずっと読みたいと思っていて、昨日届き、無事に読み終えた。だってお前、「焼きガレイのおいしかったこと、という彼の言葉は、ぼくたち全員の気持ちを代弁していた。船乗りの歌を歌いまくったその晩のことを彼が感激とともに思い起こしたとき、ぼくは心からそれに同意した」 この文章を読んで圧倒されない人間がどこにいるんだ?

 

完全に期待通りだった。完全に最高だった。レンツは雰囲気を醸し出すのが抜群にうまかった。ある友情の形や愛の形があって、それをレンツは形容して表現するのではなく形そのものを書いた。ミスると無機質な冷たい文章になってしまうが、レンツはもうそこら辺を完璧に理解し、あのなんともいえない雰囲気(なんともいえない雰囲気。俺はかなり面白い表現を使っている。なんともいえない雰囲気......笑いが出そうだ!)を醸し出すことに見事に成功している。レンツの文章は、俺の中にある最高の友情の気持ちを代弁していた。その友情はレンツに心から同意した。光をもたらすジョゼフ! 主人公クリスティアンの彼女(これはかなり俗悪な言い方だ。本当は先生と書くべきだろう。しかも英語科の担当ということを添えて)の父親、彼は電気技師で切れる電球はすぐにわかるそうだ。いつもいくつか電球をカバンに入れていて、実費で譲っていた。そんな彼を仲良くなった客は『光をもたらすジョゼフ』と呼んだ。天才か。文章の途中で挟まれる小話や本当にささいなことでも、人間ならばだれもが共有している原風景の匂いや夕日のようだった。例えば、本当に端役としての役割しか与えれていないピュシュケライトという男がいる。彼が話はじめると聞いている人たちはみんなほほえんだ。主人公もほほえまずにはいられない。なぜなら彼がすべての名詞に縮小語尾(小さいものや可愛らしいものを表すためにつける)をつけ愛称のような呼び方をするからだった。こうしたことがたくさん書かれている。レンツ! どう生きればこんな文章が書けるんだ! クリスティアンは年相応のキモさがあって、まぁ正直きつい部分もあったが、まぁいけるって感じだ。レンツ!

 

エウレカセブンを見終えた。人間以外の知的生命体との対話。子供と大人。家族。恋。愛。気合い。エウレカセブンに気合いを注入しまくってデューイをマイルドにしスカブコーラルをちょっとかなり怖くすれば大体グレンラガンになる。スカブコーラル以外の知的生命体を登場させてデューイを消去すると大体ダーリン・イン・ザ・フランキスになる。そんなところだ。ところでアネモネの独白はノーベル文学賞を五回受賞できる。惜しむらくはエウレカセブンがアニメだったことだろう。レントンはなんか精神年齢が乱高下してよくわからなくなるが、とにかく終盤では父親の器になっていた。レントンの髪型がアドロックみたいになったのがその証拠だ。レントンはかっこいいときは髪型がアドロックになる。これは一般的によく知られている。とりあえずレントンエウレカは全てを終わらせてちょっと長い新婚旅行をやっていて、まぁいつか帰ってくるだろうってところだ。エウレカセブンAOに関してはあまり言及しないでおく。一つ言うとしたらあれにも面白くなる要素はあった。問題は、無視できない矛盾がありまくりだったことだけだ。

 

こんな感じです。

真夜中の日記

Silver Mt Zion......The caretaker…… 最高のもっとも基本的な形はこのようなものを言うのだろう。恐らくだが......確信がある......(この文章はややおおかしいが)

 

ヴァイオレット・エヴァーガーデン10話を久しぶりに見た。嬉しかったこと。10話が泣けること。悲しかったこと。俺は初めて10話見た時なんて言ってた? どんなことを思った? どんな顔をしていた? ほとんど残っていないこと。この喪失感はかなり大きい。号泣して鼻水まで垂らした、ここ数年で(人生でといってもいい)かなり (何て書けばいい?)日のことを、俺は覚えていることが出来ない。あの日の俺は漂流し、どっかの島に流れ着くだろう。そこでインドの血を感じさせる少年に拾われて、献身的な介護のもと友情を育んでいく。しばらくして少年と共に島から脱出することを決める。イカダを作り、食糧を貯え、出発の日にはお祝いに島の豊かな森に火を放って大海原へと進んでいく。これ以上は語るまでもないだろう。不和が彼らに軋轢をもたらし、どうにかしてどっちかを殺す。自殺とかの葛藤を一通り書いて、ラスト一行で核戦争後の世界を映せば完璧だ。燃え尽きた島には古びた子供用のポッドが一つ。こうした物語を書く場合、流れ着いてきた人間に関して徹底的に沈黙を貫くことで、完全に論理的で納得のいく物語を語ることが出来る。読者は、何もない場所にこそ何かがあると考えている。そして勝手に何かを置いてくれる。しかも完璧に近いものを。あるいは完璧なものがあると思い込んでくれる。ただし、読者にこう思わせるためには他の部分が良いものでなければならない。この世のだいたいの物語についての考察は、ほとんど意味がないものだ。なぜなら恐らくそれは単にミスだからである。ミスをミスとして冷静に処理されるか、考察の対象として熱狂させるかは、ミス以外の文章で読者を熱狂させられるかどうかだ。

もし世界のどこかに義手の女性がタイプライターを打つ場面があったとしたら、それだけで救われる気がしないか? 

竹原ピストル

竹原ピストルの「よー、そこの若いの」を初めて真面目に聴いた。

「こんな自分のままじゃいけないって 頭を抱えてるそんな自分のままで行けよ」

オイオイオイこいつマジかよ。マジでビビる。これはすごい。行きます。竹原ピストル......

帰りは斉藤和義の「歩いて帰ろう」を聴きながらノリノリで歩いて帰りました。