最後のディズニープリンセス

インターネットのうわさによると、一番最後のディズニープリンセスは全てをさらさらなものにするそうです

統合失調症1

統合失調症について興味がわいたのでいくつか本を読んでみようと思い、とりあえず目についたもの(Amazon.co.jp - 統合失調症 1 《Heritage》 (精神医学重要文献シリーズHeritage) | 中井 久夫 |本 | 通販)を読んだ。

 

内容

 

最初にいくつかの統合失調症患者の症例があげられる。統合失調症にはいくつかの型があり、緊張型や妄想型や破瓜型といったものがある。

 

統合失調症者はいくつかの時期に分けられる。「ゆとり」(この語は「あせり」とともに統合失調症者にとって非常に重要なキーワードだ)が確保されている(こう言ってよいのなら普通の状態と言ってもよいだろう)『余裕の時期』、「あせり」を行動によって解消しようとする『無理の時期』、もはや「あせり」は行動によって解消されなくなる『焦慮の時期』。

 

『焦慮の時期』から進行した状態を『いつわりの静穏期』と呼ぶ。この頃は『焦慮の時期』のいくつかの身体的な症状が不意に消失するが、本人からすると、「いつもより疲労しているのに、”奴”が来ない」と寧ろ不気味さや悪い予感として感じられるようだ。聴覚が過敏になり、一種の超越感のようなものが芽ばえる。一般に『いつわりの静穏期』は非常に短時間で、数時間から数日で終わり、発病臨界期を迎える。一方で『焦慮の時期』や『無理の時期』は何年何十年も続いている場合もある。

 

統合失調症への準備性を持つ人は、大問題を小問題に引き直して解決しようとする。現実の個々の事例を一般的な法則における特殊解として解こうとするのである。彼らは常に緊張状態にあり、常に身構えているようなものである。

 

そうした時期を長い間過ごしてきた彼らは、「ゆとり」という言葉に対して一般的に特徴的な反応を示す。自分の人生に足りなかったものはまさにそれであると洞察を得る場合や、途切れ途切れにしか会話しなかったのが朗々と「ゆとり」について話し始める場合、また話し始めなくとも、内省的な表情を浮かべることが多い。概して、自分のことを理解してもらえたと患者は感じるようである。

 

発病期については複雑だしよく分からなかった。統合失調症患者の自然回復機能は高い。医者は「自分が治す」というよりも、その自然回復力を促したり強化したりする態度が大事なようである。患者は小さなことによく気づき、非常に僅かなほのめかしや外から見るとわからないようなことでテストを課していて、それらに重大な意味が込められていることが多い。また、発病直前に、「生死をかけた抵抗」とでも呼ぶべき身体症状が現れることがある。発熱がその典型だ。統合失調症の症状に関してはアポフェニーやアナストロフェなども参照するべきだろう。

 

回復期で重要なのは、患者は視線の被曝量が低いということだろう。つまり一人になれるような部屋が必要だ。すぐに社会に放り出してはならない。この時期にも緘黙や、一律的な悪夢が繰り返される。寛解過程には言語活動は著しく減退する。ここで治療者は築き上げた関係が一挙に崩れるように感じ、治療の『導きの糸』を失ったと感じる。しかし、これはあくまでも寛解過程の状態であり、ここを辛抱強く耐えることがひいては寛解へと繋がっていく。

 

統合失調症者に対する際に必要なのはとにかく人間的な関係、具体的には当人の心理的現実を否定しないというのがひときわ重要のように思えた。「なるほど。そういうことを私は経験したことがないのだが、もしかしたらそういう世界もあるのかもしれないね。不思議なことだね」。婉曲的な表現は良い効果をもたらす。「不思議なこと」というのは否定されることは少ない。「不思議ですが事実です」と返されることはあるかもしれない。

 

本当にすごい話もあった。

井村恒郎が初診時しばしの沈黙ののちに「つらいですね」とつぶやくと、昏迷が一時に解け、患者がはらはらと涙をこぼしたという。