最後のディズニープリンセス

インターネットのうわさによると、一番最後のディズニープリンセスは全てをさらさらなものにするそうです

一人暮らし始まった

一人暮らしが始まってきた。ここらで一度生活について見つめなおすときだと感じたので、生活について整理する目的でこの文章を書く。ところで、いくつかの困難がある(困難は分割するべきだ)。

(i)ご飯が食べられない
(ii)起きるのが辛い
(iii)洗濯を放置してしまう
(iv)風呂に入るのが基本深夜
(v)金に関して何も知らなすぎる
(vi)陰嚢の痒みが治まらない
(vii)飲料水の圧倒的な不足

これら以外では寧ろ改善されている面もある。具体的には、図書館に行くか謎の路線で謎の場所に出かけている時間がかなり増えた。上京前の私はあらゆる意欲が減退しており、そもそも外に出るという行為自体を忌避していた。これは大きな進歩だ。

困難は出来るだけ解決するべきだろう。いくつかの解決策が浮かぶ。

(i)いくつかの保存の効く食料を買いだめしておく
(ii)早く寝る、昼寝をしない
(iii)出来るだけ汚さないようにする
(iv)気にしないようにする
(v)生きる
(vi)もう無理かも
(vii)飲料可能な水道水がある

また、いくつかの後悔も明確に形になってきた。こちらは、定義から言って解決することは出来ないため、わざわざ書き連ねる程のことでもないだろう。種類としては、非常に馴染みのあるものばかりだ。そのような普遍的な後悔がいくつかある。

更に、いくつかの希望もまた現れてきた。基本的には後悔と相対するようなものが多く、これらの希望が独立したものなのか明確になった後悔に対する防衛機制のようなものなのか判断を付けるのは私には難しかった。こういう場合はエポケーとかをした方がいいのだろうか。私はエポケーのことをあまりよく知らない。文章の品位向上のためテクニカル・タームを使うためにはジャーゴンの使用すらも厭わない、そのような覚悟が必要なのだ。話がそれた。日によって、あるいは数時間毎に私の中での希望と後悔の、いわば濃度のようなものは移り変わっていっている。しかし言うまでもなくこうした場合は希望に従っていくべきだろう。希望はいつでも無限なのだが、人はそうした概念に不慣れで、どうしても高々有限個しない後悔を過大に評価してしまうものだ。そうしてまた同じ種類の後悔が増えていく。人間の価値判断の特性上、「もう手遅れだ」と思ったぐらいが始めどきだということは忘れないようにしておくべきだろう。