最後のディズニープリンセス

インターネットのうわさによると、一番最後のディズニープリンセスは全てをさらさらなものにするそうです

(構造素子 アンドロイド電気羊夢?

🤖⚡️🐏💭🤔を見た。フォークト=カンプフ感情移入度検査法。特別者。ピンぼけ。個人的に、アンドロイドの意味するところはつまるところ高機能の発達障害(特にアスペルガー)、精神疾患、反社会性パーソナリティ。フォークト=カンプフ検査法はDSM-5といったところか。ソラリスが別知性との邂逅と対話と相互理解の話なら、🤖は劣知性(危険な言葉遣いだが、この言葉は私の個人的思想とは何の関係もない。そういう表現を単にしているだけであり、必要とあらばいくらでも変更することが出来る代替可能な、任意のある語彙集合から無作為に選ばれた形容詞に過ぎない。つまり単に作品中のアンドロイドの共感性の低さに対してそういう表現を採用したに留まる程度の意味合いしか含意しない)の知性への怨嗟と復讐。後に続く構造素子もそうだが、核戦争がどんどん起こって地球がちょいヤバめの世界だ。動物はほとんど死に絶え、従って動物を飼うことが死に損なった人類にとっての一種のステータスとなっている。とある大企業がアンドロイドを開発し、彼(女)らは火星でこき使われているが、時たま過剰労働に嫌気がさしたアンドロイドが地球へと逃避行してくることがあり、それらを終了させることで金を稼ぐバウンティハンターもどきをやっているのが主人公である。もう一人の主人公は特別者で、特別者認定されると人間扱いされなくなる。マーサー教の熱心な信徒でもある。マーサー教とは、ウィルバー・マーサーを教祖とする、共感(エンパシー)ボックスを使ってマーサー、ひいてはマーサー教徒との擬似的な肉体的融合を通して同じ感覚を共有し、他人の喜びを喜び、他人の悲しみを悲しみ、マーサーが辿ったとされる道のりを共に歩くことでその一体感を感じ、それによって共感する(私にはマーサー教徒たちは共感それ自体を目的としているように見える。そのことについてはまた話す)。

小説内では動物の飼育がステータスとなっているのは先ほど述べたとおりだが、この「動物の飼育」があの世界で意味しているのは正確にはステータスというようなものではない。それはもっと根源的なものな気がする。例えば人間存在の証明。バウンティ・ハンターの主人公(主人公1とする)は物語序盤では羊を飼っているが、じつはそれは動物の羊ではなく電気羊である。人間はみな動物を飼っている。飼っている動物が電気動物であるかどうか疑うなどというのは非常に失礼な行為とされている。仮に動物の飼育が富の象徴とか階級の証明書とかなら電気動物は流行らないし、電気動物か疑うことはむしろ推奨される行為だろう。アンドロイドが動物を飼うと、長生きしないことが作中では語られる。人間は動物を飼うことで暗に自身が人間であることを主張している。そして彼らは他人の飼っている動物について余計な詮索をしない。相手が人間でないと疑うとき、あなたが人間である証拠がどこにある? 作中で人間とアンドロイドを隔てる最も大きな差異とは共感性の有無だと言われている。ここからは完全に私の妄想だが、この物語には不思議なほど子供が出てこない。マジで一ミリもない。作中にこんなセリフがある。「避妊は犯罪」(意訳)。そういうことだ。もちろんセックスはするが、それも結局は人間とアンドロイドのものであり、従ってそこには愛や娼婦や悲しみがあるにしても、新たな命の芽吹きというのは一切ない。終盤にて主人公1とその妻はなんだかいい感じになるが、そこでも彼らには全くと言っていいほどセックスを感じさせる要素がない。結婚五十年目の老夫婦のようなお互いへの思いやりだけがある。主人公1とセックスしたアンドロイドが主人公1の買った本物の羊を殺すんですが、そこで彼の妻は夫に不穏な女の影があるにもかかわらずあまり気にしている様子がない(これは俺の気にしすぎである可能性がじゅうぶんにある)。つまり何が言いたいかと言うと、あの世界ではもはや人々は子供を産めなくなってしまっているのではないか? 核は現在の生物だけでなく、未来の生物すら殺せる。子供の産めない夫婦が次にすることは? ―――ペットを飼う。従って動物を飼う。では、もはや性的に不能な生物と、機械の違いは? 我々はいくつかの逃げ道を用意できる。思考の有無などがあるだろう。しかしアンドロイドのそれはもはや人間のそれと遜色ないどころか、超えてさえいる。では、何処に行くかではなくどこから来たのかという視点で見てみよう。子宮から出てきてない奴は全員敵だ。そして他にも、共感性の有無などがあるかもしれない。我々は共感に救いを見出す。つまり、マーサー教に。

ところで、彼らは動物を飼う。主人公1は昔羊を飼っていて、それは病気で死んだ。その後は電気羊を飼って、本物の黒い羊を飼い(そして先述のように殺され)、最終的には電気蛙を飼うことになる。

主人公1は果たして本当に動物を飼うことが出来ているのだろうか。動物を飼うこと、飼い続けることが人間性の証明になるのだとしたら主人公1は一体どれほどの証明が出来ているだろうか。作中に出てきた動物たちはそのことごとくが電気動物だった。主人公1の隣人の馬は本物らしいがそれももはや疑わしい(そして俺の人間性も)。電気動物は動物の代わりになるのか? パソコンに干し草やパソフード(パソコン用の餌)をあげる自分を想像してほしい。あなたはそいつが本当にイカれていないと思うか?












*((((構造素子を読んだ。文体が非常に面白く、基本的にはAがAでありAによって出来ているAであるAがAを含んでいるというようなことを無限に言って(フラクタルって)いた。また『宇宙葬』や 『φ パラレル ¬φ』といった私が個人的に思っていたことが色々と出てきて単純に親近感を感じた(と同時にやられた! 俺はもうこれらを使っても二番煎じではないか!(構造素子の刊行は2018年なのでそもそも俺の負けだ)とも感じた)。多くの引用があり、しかし基本的には論考(論理空間)、デリダ差延(幽霊(定常蒸気流(実在と非実在の間のゆらぎ(量子))))、生成文法の3つが重要なワードであり、従って種々の引用全てを把握していなくてもおおざっぱな流れを掴むことが出来るが、私のような浅学非才の身には自身の教養のなさを嫌というほど感じさせると共にデリダ生成文法に関する本を買うことを決意させるという意味ではこの本は教育的なものだ。しかし、さらにこの本の良いところは、読者に「物語る(あなたはこれを発話するか書き留めるかしなければならない)」ことを、半ば強制的な抗いがたい力学的エネルギーでもって物語らせることにある。つまりあなたは物語らなければならず、しかも、いくつかの点で物語ることについて物語る必要があるだろう。にも関わらずこの本は我々に絶望的な視点を与えてもいる。つまり、外的なフラクタル。あなたは物語る。物語が物語る。物語られた物語が物語る。内的なフラクタル。では、ここで、しかし、あなたの上にはxがあり(神と呼びたいのならそう呼んでもいいだろう)、xを包含する何がある? 何かがある。何かの上には? ――― \mathbb{U} . )∈)∀𝑈(𝑈∈𐜠→𝑈∈𐝧)⇒𐜠⊂𐝧).........??.....?...?....???..?????.............................................                                                                                                      ..!)


*L-PV基本参照モデルによる.