最後のディズニープリンセス

インターネットのうわさによると、一番最後のディズニープリンセスは全てをさらさらなものにするそうです

自分だけが覚えている周りの人間からするとクソどうでもいい(お前にとっては気がかりな)ことを話しはじめるときに文頭に付けられる「なんか」の配達で日々をやりくりしている。実際にはこんな仕事はなく金を稼げることもなくそもそもこういう風になんかを使う人間はいない。いたらコメントしてくれ。謝ります。クソが。クソすぎる。なんだこれ。死ね。キモすぎる。

ところで、出来るだけ短い文章で喋った方がいい(死ね。キモイ。ハゲ。等)。その方がなんか深みが出る。実際には出ていないが、なんかそんな感じがする。名言って調べて50行の文章は出てこないだろう。そういうことだ。俺は何を書いているんだ? 何かを書きたかったはずで、それはこんなものではなかったのは確かだ。なんなんだ。良い文章を読みまくればいずれ書けるようになるのだろうか?  良い文章について考えをめぐらせてみてもそれが一体どういう規則や構造を持っているのか全く分からない。分かるのはおぼろげな輪郭だけだ。判別は出来る程度の感覚。分かるだろう。私はまだ良い文章を書けていない(まだ...)。読みまくる解きまくるというのは本当に意味のある行為なんだろうか。問題を解き終わったときのあの虚無感はなんなんだ?  分からなかった問題にこそ成長があるのだとして、それの解説を読み込み理解したとして、そこからどうすればいいんだ?  また次の問題へいくのか?  それで俺は成長したことになっているのか?  良い文章をただたくさん消費しまくればそれで良い文章を書けるようになるのか?  どこに良い文章があるんだ?  文化祭で「良い文章  6000円」とでも書かれて売られてんのか?  どこの文化祭だ。教えてくれ。頼む。教えてください......