最後のディズニープリンセス

インターネットのうわさによると、一番最後のディズニープリンセスは全てをさらさらなものにするそうです

真夜中の日記

Silver Mt Zion......The caretaker…… 最高のもっとも基本的な形はこのようなものを言うのだろう。恐らくだが......確信がある......(この文章はややおおかしいが)

 

ヴァイオレット・エヴァーガーデン10話を久しぶりに見た。嬉しかったこと。10話が泣けること。悲しかったこと。俺は初めて10話見た時なんて言ってた? どんなことを思った? どんな顔をしていた? ほとんど残っていないこと。この喪失感はかなり大きい。号泣して鼻水まで垂らした、ここ数年で(人生でといってもいい)かなり (何て書けばいい?)日のことを、俺は覚えていることが出来ない。あの日の俺は漂流し、どっかの島に流れ着くだろう。そこでインドの血を感じさせる少年に拾われて、献身的な介護のもと友情を育んでいく。しばらくして少年と共に島から脱出することを決める。イカダを作り、食糧を貯え、出発の日にはお祝いに島の豊かな森に火を放って大海原へと進んでいく。これ以上は語るまでもないだろう。不和が彼らに軋轢をもたらし、どうにかしてどっちかを殺す。自殺とかの葛藤を一通り書いて、ラスト一行で核戦争後の世界を映せば完璧だ。燃え尽きた島には古びた子供用のポッドが一つ。こうした物語を書く場合、流れ着いてきた人間に関して徹底的に沈黙を貫くことで、完全に論理的で納得のいく物語を語ることが出来る。読者は、何もない場所にこそ何かがあると考えている。そして勝手に何かを置いてくれる。しかも完璧に近いものを。あるいは完璧なものがあると思い込んでくれる。ただし、読者にこう思わせるためには他の部分が良いものでなければならない。この世のだいたいの物語についての考察は、ほとんど意味がないものだ。なぜなら恐らくそれは単にミスだからである。ミスをミスとして冷静に処理されるか、考察の対象として熱狂させるかは、ミス以外の文章で読者を熱狂させられるかどうかだ。

もし世界のどこかに義手の女性がタイプライターを打つ場面があったとしたら、それだけで救われる気がしないか?