最後のディズニープリンセス

インターネットのうわさによると、一番最後のディズニープリンセスは全てをさらさらなものにするそうです

日記

ショーペンハウアーには本当に勇気づけられる。というか、仏教に勇気づけられる。仏教は耳障りのいいことを言わない。僧たちはミイラになることに多大な幸福を感じ、とにかくこの世界とそこにとらわれた精神は穢れていて終わってるということを力説する。

 

仏教は悟りをキュウキョクの目標にする。救済とかではない。ただ己が最高の到達点に行くことだけを考えている。そこが俗っぽいからこそ、それ以外の部分が清廉潔白になる。耳障りのいいことを言わないから、なんだか信用できる、というわけである。

 

観照だ。俺に必要なのは。名付け以前の世界、赤子の世界だ。そのとき、世界は世界でしかなく、世界はまさしく世界だった。世界の豊潤なる世界としての全体像が立ち現れていたのだ。その真なる現前はもはや失われてしまった。名詞によって。論理によって。

 

すべてがすべてであったような世界。乳呑児にして狂人にして天才の世界。あの場所に還りたい。

時計じかけのオレンジみた

時計仕掛けのオレンジをみた。

 

例によってネタバレがある。

 

 

前半の気合の入れようはすさまじく、刑務所に入れられるまでのほとんどのカット(ジョージを理解らせたあとレストランに行くところ以外)が緻密な計算と凝らされた趣向と美学的なセンスを感じさせる。つまり一つの絵となっている。少し前衛的すぎるきらいがあり、うんざりする場面もあったが、なにより気合を感じる。アレックスが女を二人連れ込んでセックスするシーンで、一人の相手をしている間にもう一方が着替えはじめ、セックスが終わるとまた脱がすということをやったのがかなり面白かった。スタンリー・キューブリックのことはよく知らないがギャグ漫画とか描けばいいのに。

 

カメラワークは圧倒的に美しい。

 

後半の画作りはやる気なくなったんかなというくらい普通だった。勿論テーマとか物語の考察とかの考え方をすれば、無軌道的な若者時代から、洗脳による苦痛の時代という変遷がサイケな雰囲気(わけのわからないインテリアや髪色や服装)から暗くどんよりとした雰囲気に変わっていくところに現れているとかの見方もできるが、私からするとネタ切れな感じがした。

 

しかしアレックスを第九で拷問する場面で、作家と変な女と筋トレ男と反動男が悪の秘密結社のように集まる場面は衝撃的だった。特に反動男がビリヤードボールをもてあそぶのは、天才的な描写だった。

 

画は美しいし様々な工夫が見える。逆に言うとそれ以外はあまり印象に残らなかった。セリフ回しは原作者の仕事だし。件の画も奇をてらいすぎているような気がする。でも何十年も前の映画が今でも奇々怪々に映るというのはかなりすごいことかもしれない(百年千年前なら奇怪なのは当たり前だが、十年という単位ならそれが偉大な仕事のように思ってしまうのはなぜだろう)。

 

女とのセックスはくどいぐらいに描くくせに刑務所内の性描写は全くなくてこいつ性欲だけで作ってねぇよな? まぁいいや。

 

時計じかけのオレンジ」というのはロンドンの労働者階級のスラングらしく(【ネタバレ解説】映画『時計じかけのオレンジ』タイトルの意味とラストシーンを徹底考察 | FILMAGA(フィルマガ) (filmarks.com))、まぁ詳細はこれを見ればいろいろ書いてある。

 

 

 

 

日記

昔あなたの呼吸は夕暮れのようだった。渋谷のホームレスを思い出す。君の呼吸を見た瞬間、ホームレスが君に祈り始めた。確かこうだった。「微笑みたまえ。生きたまえ」。彼らはいつも本質的だ。

 

あなたの呼吸は夕暮れであるからして、定義から言ってそれはもはや終わりかけのものだった。世界を夜が覆った。ホームレスは人狼に食われた。どこからか祭り囃子の音が聞こえてきて、僕らは布団に包まりながら暗闇を暗闇で必死に見えないようにした。

 

願いなどなかった。両親が隣の部屋でペースト状にされているときでさえ。なぜかというと、涼しい匂いがしていたからだ。水と風と土と葉の匂いがした。悟りの匂いがした。

 

星々の光の隙間を縫うようにして君の肉体が充満していった。クリスマスから6日前の夜の出来事だった。イルミネートされたショッピング・モールで名前も顔も声も知らないバンドが何かの歌を歌っていた。誰も聴いていなかった。僕だけがそれを聴いていて、それはもう、本当に本当にすごかった。今までで行われたどのようなライブやミュージカルや舞やコンサートも、ここまでの芸術的、宇宙的域に達したことはなかっただろう。彼ら(恐らくスリーピースバンドだった)は演奏が終わると、光の粒となって空気に溶けていって、後にはギターのピックしか残らなかった。その日から私は冬が好きになった。

助けてほしい。私の悩みはささいで幼稚なことなのだが、私にとっては大問題。もう生きていける気力がない。ただ眠りたい。もうそれだけでいい。それ以上は望まない。そんなことは関係ない。俺が何を望むかではなく、社会が何を望むかだ。そして社会の期待には答えなければならない。社会の期待? 社会が俺に何を期待する? 死? 奴隷? 拷問? 眠い。そして、眠くないときには何もできない。大学は留年しそうだ。こんな状態でもロリータは少しずつ読みすすめていける。ロリータ。我が生活の種火。小説は気が楽だ。とにかくページをめくって、それでおしまいだ。一つずつ理解を積み重ねる必要もないし、試験を受ける必要もないし、前提知識も必要ない。ただめくる。生活もこんなふうになればいい。ただ過ごす。それが私には難しい。

金の左目

ある時、ある国に金の左目を持つ王女が産まれました。

国王と従者たちは大変驚きましたが、これは喜ばしいことだと大いに騒ぎ、王女はとても可愛がられました。

王女の美しさは皆を虜にし、国の誰もが王女の美しさを讃えました。誰も彼もが、「あなたの目は美しい」と王女を褒め称えました。

別の国の王子や、高名な学者、屈強な戦士、村の農夫といった、数々の男たちが王女に結婚を申し込みました。そしてやはり誰もが、「あなたの目は美しい」と口を揃えて言いました。

ですが王女は優しい心の持ち主で、誰か一人を選んでその人と結婚するということが耐えられず、返事をしないままにしていました。

そんなある時、怪しげな眼帯をした男が王女に謁見を求めました。

従者たちは、この男も王女に結婚を申し込むのだろうと思い、王女のもとに案内しました。

男は王女に恭しく一礼すると、「あなたの左目を見せてはくださいませんか」と頼みました。

王女はそれに応え、左目がよく見えるように目を開きました。

男はそれを見ると、「実は、その左目は私のものであるはずだったのです」と言い、眼帯を外して、自分の右目を見せました。

そこには確かに、王女の金の左目とよく似た金の右目があったのです。

そして、そう言われたあとよくよく見てみると、王女の右目と、金の左目は少し形が違うことに従者たちは気付きました。

そして男の左目は、王女の右目とそっくりだったのです。二人の目は、神のいたずらか、入れ替わってしまっていたのでした。

王女は酷く驚きましたが、優しい心を持っていたので、男に金の左目を返してあげることにしました。

男は深く感謝し、「あなたの心が綺麗だから、金の左目があなたに与えられたのかもしれません」と言って、片方の目から涙を流して喜びました。

こうして、王女は金の左目を失うかわりに普通の目を得て、視力がとても良くなりました。

男は、普通の目を失うかわりに金の左目を得て、またどこかへと去っていきました。

そのことが国中に知れ渡ると、民たちは最初、王女のことを褒めそやしましたが、王女の姿を見るなり、皆王女のことを避けるようになりました。

あれだけたくさんあった結婚の話も、農夫のものを除いて、全てなくなってしまいました。

王女は、自分が今まで皆に愛されたのは金の左目のおかげだったのだということに気づき、深く悲しみ、同時に怒りました。そして、あの男を探し始めました。

やっとの思いで男をみつけた王女は、金の左目を返してほしいと頼みました。

しかし男は、それはできないと答えます。

怒りに我を忘れた王女は、その男を殺して、目を奪ってしまいました。

金の両目を持った王女は、今まで以上に人々に愛されました。

これに気を良くした王女は、もっと皆に愛されるために、金の体を持つ人を探しました。

金の左腕を持つものの腕を切断し、金の右足を持つものの足を切断し、金の乳房、金の鼻、金の耳、金の髪と、金の体を持つ人たちを追い詰めて、それを奪い、自分のものにしていきました。

いつしか王女の体は全て金になってしまい、王女は歩くことができなくなってしまったので、国で一番目立つ場所に自分を置いてもらうことにしました。

王女の金の像には毎日人だかりができて、王女はとても喜びました。

結婚の話も増えました。別の国の国王や、商人、鍛冶屋といった男たちが王女を欲しがりました。

ある時、どこかの農夫が、畑の土を鍬で掘っていたら、なんと、土の中から金が出てきました。

その話を聞いて、人々は皆土を掘り始めました。そうすると、たくさんの金が出てきました。

いつの間にか、王女の金の像の周りには誰もいなくなり、皆、金を掘ることばかりに精を出すようになりました。

その内、金の食器や、金の剣、金の王冠や、金の建物、金の像や、金の服がたくさん作られ、それらの美しさに人々は目を奪われました。

ですが、王女の金の像の周りには、やはり人は来ませんでした。なぜなら、王女の金の像は体がちぐはぐで、ぐちゃぐちゃでした。

王女は深く悲しみ、涙さえ流れてしまいそうでしたが、金の目から涙が出ることなどいつまでたってもありませんでした。

 

 

由美子

小学校から中学まで、由美子という同級生がいた。とてもいい匂いがして、別格に綺麗な奴だった。髪の毛がサラサラで、艶が天使の輪っかみたいだった。歌がうまくて、仲のいい奴らと一緒によくカラオケに行っていたらしい。由美子は清廉潔白で、俺たちがエロで盛り上がっても、本当に、なんのことか分かっていなそうだった。

 

俺は田舎に住んでいて、小学校も中学校も一つしかなく、みんな顔見知りだった。だから、中学三年生になると、高校でバラバラになってしまうことに悲しみを覚えた。知っているはずの人たちが自分の知らないところで知らないことをして知らない人間になっていくのが、とても怖かった。

 

由美子は中学三年生の時に『犠性』になった。親世代はこれを神様のお世話係だという風に俺たちに説明するのだが、中学三年生の俺たちはこれがそのようなものではないことを分かっていた。そしてあの、純真無垢そうで、勃起とかすら知らなそうな由美子も、自分がこれからどんな目にあうのか分かっていたし、多分、俺たちが想像するようなものよりももっとむごくて酷くて下劣な様を想像していたと思う。なぜなら由美子は笑っていたから。

 

 

由美子は多分こうなることをとても小さい頃から察していたのだと思う。俺たちがまだ小さかった頃、小学生くらいだった頃、美奈子ちゃんも犠性になった。美奈子ちゃんは手足がすらりとしていて、元気溌剌だった。美奈子ちゃんは17歳で犠性になった。美奈子ちゃんの彼氏さんは今は東京にいるらしい。

 

可愛くて、優しくて、人気者で、歌が上手な由美子は、頭の中では自分が咥えさせられ、舐めさせられ、舐められ、触られ、揉まれ、あるいはもっと、自分がそうなってしまうことをずっと想像していたのだろうか。

 

由美子は東京の大学に行ったが、2年生のときに中退して、自殺してしまったらしい。お腹の中には赤ん坊もいたそうだったが、由美子の周りには男の影一つなかったという。また、尾ひれのついた噂話だが、由美子の死体が見つかったとき、何故か赤ん坊は産まれていて、死んでいるにも関わらず由美子に抱き着いて剥がれなかったという。男の子だったそうだ。

私は渋谷が好きだ。ここには違和感がない。確固たる土台がないから、全てがいっしょくたにされて混沌としていて、従って私のようなものがいても、誰も気にも止めない。それが私には心地よかった。ここは透明な街なのである。全てがあるから、全てが無視される。ここには物珍しさや異常は発生しない。夜職、女子高生、サラリーマン、路上ミュージシャン、飲んだくれ、トランスジェンダー、殺人鬼、ホームレス、   。

 

私は美術館が好きだ。ここでは注目するものが決まっていて、決められた道を歩くだけだ。空間は広く、床は白い。私は大の字になって寝そべりながら周りを囲む顔たちに視姦される。しかしその目は穏やかで、顔付きはゆるやかである。彼らもまた私と同類なのだ。見られているのに、見えないもの。

 

私は本屋が嫌いだった。私には本をとることができない。私には、何かに働きかける力がないのである。手に取ったり、足で蹴ったり、声で呼びかけたり、そういったことは私には不可能である。私に出来るのは、見ること、聴くこと、受容すること。私は私が私のようであるからではなく、そういう副次的な理由で孤独である。


私はトイレの前に立っていた。そのはずだ。私には鏡とそれに映る景色が見えている。だが、そこに映るはずのものはいつまでたっても見えなかった。


人々は私の周りをぐるぐると回った。それに反して時計の針はちっとも動いていないように思えた。


時々自分のことについて考える。私は   である。   ということは私が背景に完全に同化するような特殊な皮膚を持っているのか、それとも光を透過するのか。後者なら、私は盲目のはずだった。前者であるとも思えない。私は周囲に溶け込んだり、馴染んだりしているのではない。私はずっと部外者だった。渋谷の人々とは違うのだ。だから、私は多分反射した光を何らかの形で、少なくとも地球上の生物にとって、可視ではなくさせてしまうのかもしれない。今のところそれが最もらしい話だった。突拍子のない話ではない。私以外に   が何十、何百、何万いたとしても、全くおかしなことではない。“ない”というのは常に論理にとって厄介なものだ。それは多分論理の自己防衛的な側面もあるのだろう。自身の存在が危ぶまれないように。自分の薄っぺらさが、ばれないように。存在と非存在の間。私たちの足跡は、存在の浜にあって寄せては返す非存在の波にさらわれる。


交差点のど真ん中で私は立ちすくんでいた。とぐろを巻いたソフトクリームのアイスを男の子が凝視していた。手をつなぐ父親は呆然としていた。

 

真夏の渋谷の暑さはとどまるところを知らず、溶けたアイスがぽたぽたと落ちてその度に男の子のズボンと父親の革靴に白いしみがついた。

 

凛とした佇まいのアイスはどんどんその形をゆがめて、男の子の指を段々滑り落ちながらアスファルトに水溜りを作る。いずれ乾いて、もしかしたら、なにかしらの跡が残るのかもしれない。

 

遂に自らの重さによって自らの軽さに耐え切れなくなったアイスはべちゃりと地面に落ちた。腐った肉に集る蠅のように男の子はそのアイスに手を伸ばす。あ、と誰かの声がした。赤と緑の信号機が私の頭上でぐるぐる回っていた。

 

ぐんっ、と男の子の体が一瞬浮いて、首がしなりながらものすごいスピードで父親の腕に収まった。目の前をトラックが通過する。その風切り音はやけに耳に響いた。信号が緑に変わり、男の子は父親に抱えられながら横断歩道を渡る。タイヤ痕がくっきりついたアイスクリームは、飛び散って広がり、烏の糞のようだった。男の子は父親の肩に顎を乗せてそれをじっと見ていた。空になったスコーンは固く右手に握られていた。